ブログで書くことがないので、また空想を投稿しよう。
あいいろ行商人
予兆01
何かが、始まるような予感がした。
「あっ」
口数の少ないおじさんが実に間抜けな声を出したので麻で編まれた籠のなかの薬草をとる手を止める。おじさんは堅苦しい押印の入った手紙に視線を這わせている。それこそ舐めるように、同じ個所を何度も読んでから顔の近くまで持っていたそれを離した。
「リーン、ちょっと良いかい」
頭の薄さと反比例する立派な髭を撫でるおじさんは考え事のある合図だった。面倒事じゃなきゃいいけれど、と考えながら、傷だらけで年季の入った机の片隅に寄せていた手拭で緑に濡れた指先から手のひらまでを拭う。何年も繰り返し、薬草の葉液を拭ってきた手拭はすっかり薄汚れた葉色に染まっており、今日も何度か手を拭いたので一度や二度ぬぐっただけでは手のひらの汚れがとれはしないが、お客さんの応対じゃないからどうでもよくなってしまった。
「どうしたのおじさん」
狭い工房内、席を立ってたった五歩の距離を縮めながらかける声のトーンが高くなったのは、年々聴力の弱まってきているおじさんに何度も言い直さなくてもいいように。
「行商やってみないか?」
「はぁ」
それはあまりにも唐突なお誘いだった。行商って言ったらあの行商だ。海辺の村で魚を仕入れ、離れた町で売り、そこで別のものを仕入れて、また別の町へ行く。考えるだけで大変そうな仕事だった。おじさんはそれを見透かしたように「まぁ、聞け」と続ける。
「来月で移動売買の認可の期限が切れるんだ」
おじさんは、この小さな工房で日用品からちょっとした嗜好品までを仕入れ、売買し、時には材料を持って自分で作りながら生計を立てていた。十二歳から手伝いを始め、この四年間は忙しい日もあれば、退屈な日もあった。お客さんのいない退屈な時や急ぎの仕事もない時におじさんはお店や商売のノウハウを教えてくれた。ちょっとした雑談の延長でしかないそれをノートに記すような勤勉さは残念ながらなかったが、人は老いると同じ話を繰り返すので、おじさんが何度も話して、いつの間にか覚えてしまったことも多い。だから、好き勝手に商売をしてはいけないことや、商売を行う時はきちんと役所への届けが必要だと言うことも知っていた。
「移動売買なんてしてたっけ?」
仕入れや呼び出しでおじさんは二月に一度は留守にしていたが、商品を持って何処かへ売り出しに行く記憶はない。そもそも、この田舎の小さな村に相応しいこぢんまりとした工房は幸いにしてライバル店はない分、行商のように長期間店を閉めてしまえば村中が困ってしまう。三年前に薬草の裏に卵を産んでいたハレボタ虫が還ってしまい、運悪くそれを触ってしまった二人は店に立てず、しばらくベッドのなかで痒さと戦った。数日経って店を開けたら村中の人達が買物に来たので、これは安易に休めないぞと思ったことを覚えている。
「昔少しな」
おじさんの「昔」は意味深だ。お母さんの兄で、二人は山を越え、海を船で越えた先の遠い場所が出身であること以外に出生に関わる話を聞いていない。お母さんが一番下の妹を身ごもっていた時にふらりと現れ、村のあばら家じみていた工房を修繕して商売を始めたおじさんは間違いなく私達一家の恩人であったが、それまで何処にいて、何をしていたのかを教えてもらったことはない。聞かれたくはないことかもしれないと思って、結局聞き忘れた延長に今がある。
「ストックの薬草があるだろう。麻袋に詰めている乾燥させた、そうだ、上の薬草だ。あれを持って隣町に売ってきてくれないか」
「行商じゃなくておつかいじゃない!」
経済、国防、文化、それらを担う幾つかの大都市が蜘蛛の巣を張り巡らせるように多くの市、町、村、あるいは集落らには暮らす人々がいる。隣の町は決して大きくはなかったが、隣の町は大都市へ至る街道からそう離れてはいないので都市を目指す人々が集まる。家の造りも煉瓦が多く、うちのような工房が十軒近くはあるので十分「町」と言える場所だった。隣町へ行くには峠を越え、森を抜けて街道を行けばすぐだった。徒歩なら半日で着くので、寄り道をしない子どもなら一人で行けないことはない。
「そんなものさ」
おじさんの口がゆるい半月のように開いた。笑いを引っ込めたように中途半端だった。
「おつかいのようなものだが、やって欲しいことがある」
なぁにそれ、と軽く返したがおじさんは穏やかに、しかしどこか真面目な響きを含んでいたので背筋を正す。
「麻袋三つ分の薬草をより善い形で売っておいで。いつものマーケットでも構わないし、新しい場所でもいいさ。大抵の店は、……そうだな、俺の名前を出せば買い取って貰えないことはないだろう。ちゃんとグラン村のマウロのおつかいだと言うんだよ」
商品を隣の町で売るのはいつものことだ。今年の初めにも冬の間に作った木炭が多くなったから二人でマーケットへ売りに行った。
「売上金をお前に託そう」
「どういう意味?」
「売上金を使って、隣の町で物を仕入れておいで。何が良くて、何が悪いか、自分の目で確かめて買うんだ」
「責任重大じゃない。なんでそんなこと……」
工房を介して色々なモノをみてきた。これは売れないと思ったものでもおじさんは丁寧に素材と素材を組み合わせて狭い村で売り切った。たまには売れ残る物もあったが、長い時間をかけて在庫はなくなる。できないと表明したがおじさんは姿勢を崩さない。
「大丈夫さ。上手くいかなかったとしても自分で物を売って、買った、良い経験になる。まずはやってみることだ。それに、お前ももうすぐ十五だ、もしも俺の身で何かあったら誰がエリンを支えるんだ、誰がユーリやエリィを食わして行くんだ。お前の家は男手がない、父や長男が負う筈の責務を女のお前に託すのは忍びないが、それが最初に生まれた者の務めなのだ」
優しいエリン母さん、十二歳の体の弱いユーリ、八歳の元気いっぱいエリィ。家の裏の畑や、庭の果実の木、食べて行くのに問題はないが裕福と呼ぶには程遠い。
「なに、責務とは言ったがまずはやってみなさい。頭を動かせ、手でつかめ、足を進めろ。嫌でたまらなかったらやめて、他の仕事を探せばいい。仕事を変えたくないのなら代わりにできる者を雇えばいい」
去年、村の学習舎を出て本格的に働き始めたが、半人前、子ども扱いの面もまだ濃い。その脱却を考えつつも、状況に甘えているのがずっと続いていた。
「……うん、やってみる」
本当はやりたくない、お金を自分で動かしたことはないし、隣の町できちんと売買できるかわからない。けれども、ここで逃げたらきっと逃げ癖がついてしまう。おじさんに頼まれたから、家族のために、自立のために。数々の理由をつけて返事をした。