【映画・原作】ナイルに死す、ナイル殺人事件(後編)
前回、小説版ナイルに死すの大まかな内容と、
私なりの結論を書いたので
結局のところ映画はどうだったのかを書いていきます。
前編こちら
映画、原作のネタバレに一切配慮しないので気を付けてね。
文句と感想がいろいろ。
長くなったので畳む。
前回、
私なりの結論としてナイルに死すは、
ナイルに死すは愛が故の物語であり、
ジャクリーヌが愛の形を訴える物語
ナイルに死すの主語はジャクリーヌ
(主語というのはこの物語を読んで登場人物のなかで一番強いのはジャクリーヌの犯罪に及んだ過程やその想いだな、と感じた上で、主語と書いてます)
だと思っている旨を踏まえた上で今回の映画が如何に微妙であったか
あくまでも私個人が上記のことを感じた上で、この映画は微妙だったという結論ですので
原作を知らない人、映画をエンターテイメントとして純粋に楽しめた人(とても素晴らしいこと!)、あるいは上記の出来事をあまり重要視していない人はまた別の観点で見えると思うのでまぁそこらへんは許して。
映画のざっくり評価
映像 すばらしい
役者 すばらしい
雰囲気 すばらしい
設定 良い所も悪い所も有り
脚本 ふざけるな
・映像
素晴らしい。映画をそこまで見る方ではないけれど、随所に金がかかっているのが伺える。
パンフレットによると衣装担当の人がすごい人らしく(アカデミー賞の衣装のなんたらに選ばれたとか何だとか)、
ジャクリーヌとリネットの衣装がいちいち綺麗だし、その衣装を着こなしている演者も完璧。
小説という文字のなかで表現されていた登場人物の正解像を突き付けられるし、その衣装や舞台装置なども素晴らしいが
ここぞという場面で『ここが重要だぜ!!!!』という素人目から見てわかりやすくて助かる。
(そこまで映画を見る方ではないので、あくまであまり見ない人間からしたらわかりやすくて良かったみたいな話)
・役者
ポアロ役の方は前回から続投、現代においてはもうこの顔が定着していて、他にできないんじゃ…という程のはまり役。
小柄で口髭を蓄えて、紳士的だけどどこかふてぶてしさがあるようなそんな。
ただ監督だってことも考えるとお前が元凶か…みたいな気持ちもあるがそれはさておき
演技はそんなに嫌いじゃない。
リネット役のガル・ガドットは映像を見た時に「あーーー、これは美人ですわ、これは美人ですわ、金を持ってて頭のいい美人ですわーーーー」状態。
小説版だと変な話、自信に基づく傲慢さを丁寧に描かれつつも、やっぱりそこらへんは台詞などで判断せざる得ない分「なんだこいつ…」っていう気持ちしか湧かなかったんですが、
ガル・ガドットが美人、それも顔が良いというだけじゃなくてシャープで、知的で、エレガントで、セクシーで、エキゾチックで……。
ミス・イスラエルの人らしく、中東の人の独特のエキゾチックでセクシーな雰囲気を感じる。
リネット・リッジウェイのあまりにも強い人物像を映像で突き付けてくるし、何ならリネットよりも強い……というのも、小説ではリネットも傲慢であるが故に自身に悪意を向けられたことがない故に脆いみたいなところがあるけれど、その脆さをあまり感じさせない強い美女感がガル・ガドットにはある。
ジャクリーヌ役のエマ・マッキー、これが正解、アンタがジャクリーヌっていう程にジャクリーヌしてたエマ・マッキー。
小説版でもそうなんですが、リネットが圧倒的美人で、かつ知的な人物として描かれているように、ジャクリーヌはリネットよりはその要素を軽減させないといけない。
誰もが認める美人がリネット、リネットが女王であることを考えるとリネットよりも美しさという観点でジャクリーヌは劣らないといけないが、同時にリネット以上の強烈な存在感を持っていないとダメなんだ。
しかしまぁ、よくエマ・マッキーを連れてきたもんだ。
リネットが高尚で、お高い女、そんじょそこらでは決して出会うことも話すことすらない圧倒的な女王であるのなら、
ジャクリーヌはリネットに比べると少し素朴で何処かで出会えそうな美人、そして愛の為に生きて死ぬことが出来る女という像のまさにそれがエマ・マッキー。
存在感があまりにも強い。顔の濃さとかもあるかもしれないが、肉感的でふてぶてしく、不機嫌そうで、いつ爆発するか分からない、そんなジャクリーヌがスクリーンにいるわけだ。
序盤にリネットとジャクリーヌのやり取りを見て、あまりにも強い二人の女性、それを演じる役者にどれほどぶち上がったか…。
私は小説版でサイモンが好きではないけど、人間味はあるし、奪い合われるという意味でのヒロインで、ジャクリーヌの愛した男だしなぁ……的なアレなんですが
いざサイモン訳のアーミー・ハマーが映像で出てくると、ハンサムという言葉がよく似合う役者だなぁと思ったし、二人の女が争うというのもまぁ分からんでもないし、
何よりも、小説版でジャクリーヌの台詞で「サイモンってほんとに単純な人なの。あれも欲しい、これも欲しい、まるで子どもなの―― 聞き分けのない子ども」がサイモン像だとしたら、あの体格がよくてセクシーなハンサムが子どものような性分は、女性の母性本能というか、「この人を私がどうにかしてあげなきゃ!」という気持ちにさせるには十分な魅力があると言える。ジャクリーヌはサイモンのダメなところを含めても、その愛が冷めることは決してなかったのだろうし。
役者については大正解なので役者を見る価値はある(まぁ演技についても私はよくわからないので、あくまでも原作を知っている体で見るとそこに正解像があるよっていう話)
他の役者については割愛。一度しか見てないので許して。
・雰囲気
いやぁ~よくもまぁあの原作の雰囲気に、正解の可視化を築くことが出来たなぁと。
前回のオリエント急行の殺人もそうだけど、今回の方がCGがコテコテしてなくてよかった。
マジで金がかかっているな…と思うし、金をかえた映像という意味では本当に見る価値のある映画。
・設定
映画でめちゃくちゃ良いなって思った設定が一つあって、
小説版の登場人物で序盤でリネットに婚約を申し込んでいたウィンドルシャム卿という男がいて、この人物はリネットがサイモンを強奪したのでウィンドルシャム卿はフラれてしまい、序盤以降1ミリも出てこない、本当にちょい役。
そして、小説版にはもう一人、カール・ベスナーという医者がいてこの人は事件に巻き込まれていく立場の人間なんですが、
映画版ではこの二人を融合させているんです。
つまり、リネットを愛し、婚約を申し込んでいたがフラれてしまったウィンドルシャム卿(貴族で現在は医者をやっている)が豪華客船の乗客として容疑者に入っている。
小説を読んでいる身としてはジャクリーヌがサイモンを愛している痴情の縺れ以外にも、ウィンドルシャム卿がリネットを愛している(未練がある)が乗ることでしっちゃかめっちゃかになりそうな雰囲気を予期させる……その設定はとてもいいと思った。
勿論、小説版ではカール(医者)には別の役割があるけれども、そもそも小説版は文庫本にして500ページちょいあるそこそこ長い小説なのでキャラクターが多少、省かれる分にはしょうがないし、全てをやっていては時間が足りないなどを考えたら、カールをそもそも出さないという選択肢は(小説版ではそこそこ大事な位置ではあるが!)しかたのないことだと思う。
私としてはウィンドルシャム卿とカールを融合させたのは良い案だなぁと思った。
尤も、その要素を上手く活かせたかどうかは微妙なところはあるけど、不穏な要素を散りばめる意味では成功だと……この映画で良い所として、小説を読んでいる身としては、挙げたい。
んで、他のキャラクターも改変が多い。
何せ小説版は登場人物が多いので、本来なら別の役割を持っているキャラクターを、他のキャラクターにさせて、本来のキャラクターをそもそも出さない手法自体は嫌ではない。何せ時間が限られているのだから。
ただ、ただですよ、
ロザリーはダメだよ、ロザリーを上手く活用しようとして(小説を読んでいる身としては)クソみたいな話になっちゃったし、
小説版では善人であったアラートン夫人の立ち位置である映画版の某御夫人がクソみたいな役回りになってしまったのは悲しい。
設定については
良い所は、ウィンドルシャム卿関係。
納得できるのは、従来いるキャラクターを削ったり、融合させること。
悪い所は、ブークという余計なキャラを増やしたことやブーク(ロザリー含めた)関係全般。
・脚本
ふざけるな
いや、ふざけてはいない。
良い所もある。一点だけ、ものすごく良い所があって、それは小説版を読んでいる人なら思う所だと思う。
ジャクリーヌがリネットとサイモンにつき纏っていた時にジャクリーヌとリネットの短い会話がある、これは映画オリジナルの会話で、原作にはないやりとり。
リネットがジャクリーヌに辟易しつつも、「あなたには幸せになって欲しい」(ややうろ覚え)と言い、ジャクリーヌは静かに涙を流す。
リネットSideからすると友達の男を奪った上で何を言っているんだ…という気持ちもある、あるんだ、あるんだけどさ、
ジャクリーヌSideは、これから愛する男のために友達を殺すのに、その友達から幸せを願う言葉をかけられる。
いやぁ、こんなのジャクリーヌの心情を考えるとさぁ……。
そしてこのやりとりを踏まえた上で、小説版で最後の方にジャクリーヌがポアロに思いを打ち明けるシーンで
「ねぇ、ムッシュー・ポアロ、わたしはリネットが大好きだったのよ、本当に。彼女は親友で、わたしはふたりの仲に何かが割って入るなんて夢にも思っていなかった」って告げるシーンがある。
この映画オリジナルのリネットとジャクリーヌのやりとりを、(映画版では削られたが)小説版のジャクリーヌがリネットを親友だと思っていた上で考えると、すごく胸を打たれるシーン。
(本当に小説版のジャクリーヌがポアロに話すシーンが何故か、映画ではカットされたのはとても遺憾です)
このように、映画のとてもいいシーンなのに、小説を読んでないとそのやりとりでジャクリーヌが涙を流した意味がイマイチ伝わりづらかったりと
原作未読の新規層へ向けたナイルに死す寄りで制作して、どちらかと言えば原作ファンを蹴落とすような設定や場面も多々あるにしては、このやりとりは完全に原作ファンへ向けたシーンだったように感じる。
んで、どこがダメだったかっていう話なんですが
私が原作既読&この記事の冒頭および前回の記事で
ナイルに死すは愛が故の物語であり、
ジャクリーヌが愛の形を訴える物語
ナイルに死すの主語はジャクリーヌ
っていうそれが全てではないにしても、私なりにここが重要である結論を出した上で、この小説が好きだと、映画が楽しみだったと書いたように、映画はそこではない方向へ進んで行くからこそ私は発狂しかけているし、こんな長いブログを書いている。
結論からすると、この物語の主語は、大切な友人を殺されたポアロの悲痛さ、が主語になっている。
もうね、なんか知らんけど、映画では本来とは違う形でポアロの友人を出して、友人が殺されるポジションに置いて、ポアロが激怒している、なんていう
ジャクリーヌどこいった?状態になるわけです。後半のジャクリーヌの存在感のうすさと言ったら…。
ラストにかけては、ポアロ怒りの推理劇みたいな感じで、
いや友人が殺されて怒りを覚えるのはわかる、そうだね、悲しいね、怒るね、わかるんだけど、それやるをやる必要あった?
小説版のポアロはあくまで傍観者、人間関係が渦巻く事件を客観的に見て、そこから真実を拾って、繋ぎ合わせていく探偵役。
でも、何故かナイル殺人事件を、ポアロの怒りと悲しみの物語にしてしまった。
少なくとも最後の方はほぼぞれしかない。
ジャクリーヌがどれほどにサイモンを愛しているか、親友である女性を殺してしまった彼女の思いとは……が、1ミリも出てこない。
何度も書いているけど、私はジャクリーヌが好きだ。
小説版を読んでいる人はジャクリーヌが好き嫌いがあるにせよ、物語の主軸は間違いなく彼女であると言える。
なーのーにー、
そのジャクリーヌの結末を切って、傍観者である筈の探偵を無理やり主役にして彼の悲しみの物語…みたいな感じにした。
それだけで映像、役者、雰囲気がすばらしく、設定も悪くはなかった映画が、
おい、ふざけんな映画になってしまう。
物語の主軸はジャクリーヌであるにも関わらず、それを全部ポアロが強奪していった。
リネットがサイモンを奪っていった(奪っていこうとした)ジャクリーヌの思いを、視聴者に味合わせるという高度な疑似体験なのかこれは?
この映画をナイルに死すの長めのPVだと思えばめちゃくちゃ面白い。
けれど、ジャクリーヌの心情を最後まで描かず訳わからんことしたこの映画をナイルに死すの映画と認めるのはちょっとできませんね。
この映画を、小説版を読んだことのない人が興味を持って、読んで、ジャクリーヌの心情を理解してウワーーー!ってなるような販促物の映画として売れることを願うばかり。
そんな感じ。
いい所もたくさんあった映画だけど、やっぱり主語が奪われたという観点では怒りがこみあげて来る映画化ですね。
小説版を読んでいない人は映画を見た後に、小説版を読んで欲しい。名作ですよ。