私は朝ドラが見れない

だいたい長続きしない。

きらきらひかる(感想)

きらきらひかる江國香織

 

 

 

 

 タイトルを聞いたことがあるのは同タイトルの歌なのか、この小説であるのかは分からない。

 きらきら で ひかる。

なんとも輝かしくもあり、ひらがなであることで鼻につく高尚さのないタイトルだなぁなんて思ったり。

 アル中の妻と同性愛者の夫という奇妙な夫婦の二人は、この1994年の当時はきっと精神病や同性愛に理解なんてなさそうな時代に生まれたこの小説。

 

 私のあれこれ考えたこととネタバレも含むので。そんじゃ。

 

 

 この作品以前にも精神的な負担を抱える人物や同性愛のテーマや、それに苦悩する作品はあるのだろうが、

妻側の視点では「夫のことを愛しているが、強い友情に基づく愛」を抱いていて、それを周囲から常識(夫婦は思いやる、男女は性愛として愛し合う)という武器で殴られて疲れ果ててしまいには大切な夫(友情)に当たり散らしてまた自己嫌悪や諸々の感情で死にそうになっているという、

世の中の一部がこういうことへの関心を持ち始めたぎりぎりの最先端くらい(たぶん・知らんけど)の絶妙な時代にこの小説が爆誕したのがすごいし、

自分の愛や在り方を肉親や義両親に否定されるのはすごくつらいことで、妻が傷ついてやけっぱちになるくらい傷ついている姿もなんだかすごく苦しくも、好きな部分です。

何を食べて育ったらこのような話を書けるんだ江國香織…感性が光りすぎてるんじゃ?

 

きらきらひかるには古くささがないのもすごい。

 1994年、昭和が終わって6年後、令和五年に入ったばかりの今日でも『前の時代とは違う、新しい時代が広がっている!』という感覚よりも『平成から歩いてきて、気付いたら令和だね。所々変化はあったけれど平成の終わりと大きな違いがあるかと聞かれたらきっとそこまでではない』くらいの感覚が強いので

 きっとたぶんわからんけど1994年も昭和が終わって日々が延長されてああもう六年も経ってしまったんだなぁくらいの感覚だったんじゃないかなって思う。

(本の発行日が1994年なだけなので書かれたのはもう少し前で、作者が考えていたのは更にもうちょっと前なのだと思うと更にすごい感じがする)。

 そういった出版時期が三十年近く前の本にも関わらず、登場人物は現在でも通じるような人達ばかり。

主人公夫婦の夫側が義理親(妻の親)に同性愛であることがバレて「おとこおんな」呼ばわりされるのは少々時代を感じたが今だってそう考えている人達はいそうなので、そこまで大きな違和感ではない。

 

 

 物語の主人公って大なり小なり問題(課題?障害?壁?)を抱えていて、この小説もぱっと読んで『アル中(鬱)』と『同性愛』がテーマなのかと思いきや、そんなもの問題だけどあまり問題じゃなくて、二人はそれでもそれなりに生きているし暮らしている、二人の関係だって良好な方。

 でも、周囲が二人の関係を許してくれない。

 同性愛者である一人息子(夫)を父親は思う所があるのもまぁわからんでもないが、その父親の絶妙な溝を誰よりも息子(夫)自身が感じていそうだし、母親は息子を大切にしているがやっぱり同性愛者であることを気にしていてお見合いして結婚したことで息子は異性をも好きになれるのだと安心していた(のかもしれない)(知らんけど)。

 妻の方も精神的に不安定だから元彼と別れて、今の形でおさまったけれども両親や義両親は子どもができることを望んでいる。結婚しろ結婚しろがおさまったら子どもが子どもが。

 きっとこういう親って世の中にたくさんいる。2(5)ちゃんとかでも夫婦問題に口出す親族みたいな悩みは尽きない。

恋愛で結ばれた夫婦だったとしても苦しそうなのに、

性愛として結ばれたわけではない二人にはそれがもっと苦しそうだ。

一見自由そうで不安定そうで繊細な妻はすりへっていって、次第に夫へあたったりする。最初はそこらへんの、妻が何に追い詰められているのかがよくわからないから、不安定な人って大変だな。理解がなくて申し訳ないが、不安定な人って恐らくこんな感じだって思わせる描写の数々は生々しい分、読んでいて少し疲れる。

 

 でも物語が進んで、アル中で精神的に不安定な妻、同性愛者で恋人が別にいる夫は自らの愛の形が社会どころか、できることなら一番信じて貰いたい家族や途中の展開によっては相手にも否定されるのだからもしんど~~~~~い。

 妻の笑子は、それでも夫の睦月と一緒なら変わらずに生きていけると思った。でも色々あって変わらないといけないと睦月は思い始めるわけですが、その時の笑子の、

 

「どうして急にそんなこと言うの。変わらずにいられるって言ったじゃない。二人ともそうしたいと思っているのに、どうしてそうできないことがあるの」(P157)

 

 笑子の純粋な願いが、きらきらひかっているものの一つなのかもしれん。これまでは散々暴れていた笑子にちょっとだけヒいていたが、この台詞だけは笑子が可哀想で、いとおしく感じた。子どものような無邪気さと純粋さは社会のなかではさぞ生きづらいことでしょう。

あとの展開としてはまぁなるようになるから割愛。

ただ読書メーターに書いたことが私の一番考えた感想(たぶん)(今のところ)(きっと)なので挙げとく。

 

『好き、愛してる、そういう感情は異性に向けるべきである、夫婦は互いを思いやって性愛を抱き、誰よりも大切にして、子を残してほしい。そんな圧力をかける両親達(社会?)とアル中で精神的に不安定な妻と同性愛者で恋人がいる夫。二人の間に愛はあっても、それは周囲が望む愛し方ではなくて、それが認められないことが彼らは寂しく思っている(んじゃないかなぁって)読んでて思った。愛の形や愛し方を否定されて傷つくこの小説が1994年出版であっても、古さを感じさせないのがすごいわ~』

 

 私が感じて、言いたいのはここだなぁ。

 今でこそそういう登場人物が苦悩する物語は珍しくもなさそうだけど、

 1994年の時代にあった、理解が及ぶか及ばないかのぎりぎりの時代にこの内容を、世に投じ、結果として広がったのだからこの小説はすごいと思う。すごい。

 1994年なんて私にはよくわからない時代だけど、その時代を肌身で感じている人が読むとこの人達のつらさはまた別のように読めるんだろうか。