私は朝ドラが見れない

だいたい長続きしない。

生を祝う(感想)

 

 

生を祝う(李琴峰)

 

 

 

 

 

同性愛婚、同性愛間の子づくり、胎児の出生の自由(生まれる自由)。それらが世の常識になり、特に出生拒否した胎児を産むことは法的、常識的に非難される。今の時代で言うマイノリティーとマジョリティーが逆転した世界で、出生拒否児を産む親を後ろ指さす主人公だったが同性婚をして相手の子の妊娠が決まると徐々に不安になっていき…。といった具合の話。

 

李琴峰さんは台湾出身の女性作家さん。

小説って生きてきた時の考え方とかによって色々分かれそうなものだけど、国籍が違うと異なる考え方と同じような考え方があるのかどうかを知りたくて読むことにした。

外国語の翻訳本はたくさんあるけれども、第二外国語として日本語を学んだ李琴峰さんがこうして日本語で小説を書いて活動して貰えていることに何らかの縁というか、ありがたみを感じながら読んでみた。

あとタイトルが生を祝うなんて、どことなく物々しいというか、生を祝えないような禍々しい物語だったらどうしようだとかを考えを巡らせ、気になったので読んでみた。

 

 

ここから先はネタバレと私の考えをたっぷり含んじゃうのよ。

 

 

読書メーターには

『胎児による生まれる自由の権利、同性婚と同性間の子づくりなどが一般化された世界。一見整備されて正しそうに見える世界でも大多数が信じる側(マジョリティー)が、少数派が信じる側(マイノリティー)を否定したり、マジョリティーだった自分がマイノリティーとなって、それまで自分の物差しだった常識よりも感情を優先させたり、それらを乗り越えて人は誰かに優しくできるのかもしれない、と感じた作品。』と記載。

 

読んでみて、私の考え、感想としたい部分はこれなんだけども。もう少し書いていく。

 

 

 

主人公(女)は世の中に胎児の生まれる権利が行使され、出生拒否のテストが導入された最初の頃の世代。

世の中はすっかり同性愛・同性婚・同性同士の子づくり(科学技術)が浸透しており、異性婚となんら変わらない世の中になっている(もちろん異性婚もある)

これは今の時代の(こういうのもあれだけど)マイノリティーの人達のある意味で理想の一部とされるものが具現化した世界なわけだ。

だからと言って日常が大きく変わるかと言えばそうでもなく、

(他の科学技術も発展して環境に超優しい車とかもあるっぽいが)人々は普通に勤めに出るし、主人公も産休に入るまでは普通のOLなのよ。

同僚(こっちは異性婚)も一足先に産休に入るようで、他愛のない話をする二人。まぁ普通の仲の良い同僚の会話といったものが繰り広げられるし、主人公も結婚相手の女性との会話もまぁまぁ普通の夫婦の会話っぽい。

一読すると普通な社会の、普通の人々。

ただし、出生拒否をした胎児を産むことに対してはナーバスなわけよ。

胎児が検査によって出生拒否をしたにも関わらず、その子を産むと親は罰せられる。法律違反、犯罪者。

しかし、あの人は出生拒否児を産んだらしい~という噂が事欠かない。

そういった人々を厳しく批判する結婚相手と、それに同調する主人公。

自分が信じているものこそ、守るべきことだと思っている。

 

もうここらへんで不穏感がすごいし、自分の物差しに反することに遭遇すると人はこうやって否定する(本人達に差別意識がないのもまた…)っていうのを日常に浸透させて読ませてくる。

ごく当たり前のように否定してくる感じがなかなかに不穏だし、主人公も出生拒否した子どもを産んだ人を普通に批判する。

恐らくはこの世界において主人公やその結婚相手の考え方がまぁまぁ一般的なのかもしれない。

※ただし、この世界でも出生拒否テストを含めた社会の在り方に反抗的な人はいて、テロ行為をする過激派もいる。そういう人達のニュースが報道されれば、まぁこの世界の人達のいわゆるマジョリティー的な考えもわからんでもない。

 

すったもんだあって主人公は疎遠だった姉と会う。

姉とは昔から性格の不一致を含む何かしらにおいても折り合いが悪く、姉が離婚したことすら知らない状況。

そのような疎遠だった姉がいきなり会いに来て、出生拒否テストのシステムについて難を示す。

それを生まれる自由・権利があるのだと主張し、犯罪だと言い張る主人公。

物語は一貫して主人公視点なのでこの姉がどのようなことを考えていたのか、詳しい描写はないのでわからない(作中で終盤にふれられはするが)。

しかし、序盤から中盤にかけての主人公は姉の事情を汲まず(まぁこの時は姉がどういう状況だったのかを知らない事もあるが)、世の常識、マジョリティーを掲げ、子どもが生まれる自由があり、親は子どもに出生拒否されたらそうするのが常識なのだと主張する。

そしてこの主人公の姉への諭し方が強い糾弾ではないのがちょっとぞわぞわした。

もし心からの拒絶だったらそれは自分の信じる尺度が侵害されたことへの怒りだから本人にとっては良いのだが、これが常識ですっていう体でいられると世の中の常識をそのまま口にするだけで、その常識によって傷つく人がいることに気付いていない、まぁ他人事なんだ。

しかも、主人公は出生拒否テストのテスト(本番ではない)(テストは色々な項目があって家庭環境、両親の仲、財力、生活の環境など)においてそこそこ高い数値を得ている。

要は国のテストのテストで、「あなたは子どもを持つ親・家庭である」と太鼓判を押されているわけです。

自分は出生拒否されない、ちゃんと考えて生きているといった雰囲気が少々感じられて(あからさまじゃないのがまた…なんかしんどい)読んでいてずっとざわざわした感覚があった。

 

んで、まぁお察しの通り私はずっとこの主人公が苦手で、ちょっとは痛い目にあってほしいなとか意地の悪いことを考えていたら、案の定というか何というか、主人公も出生拒否されるわけです。

最初はテストのやり方が悪い、検査する人が無愛想で少し雑で、結果を淡々と伝えてくる感じに主人公は憤りを覚える。

なんでたった一回のテストでお腹のなかにいる子どもを中絶しなければならないのか。

主人公は段々冷静さを欠いて結構な暴言を放つ。

「なんであんたみたいな思いやりの欠片もなく、母親の気持ちも分からない男にこんな検査が任せられているんですか?信用できない。とにかく信用できない」(本書、P122)ってな具合に。

ヒステリー具合が(九カ月お腹にいた愛すべき子どもに出生を拒まれたのだからそらそうなのだが)妙にリアリティーがあって、そこがすごくよかったんですね。

こうなってくると(展開としてある程度予想していたとは言え)苦手だった主人公が少し可哀想になってくるのです。

我ながら調子がいいと思いつつも、やっぱりそこまでしなくても…という気持ちがないわけではないし、物語を考えた時にそうなりそうなのもまぁわからんでもない。そんな感じで中盤~終盤はぐるぐるしてた。

 

主人公は結婚相手と喧嘩し、これまで批判的にみていた「出生拒否した子どもを産んだ人々」に自分を重ね始める。

主人公にマジョリティーとマイノリティーの逆転が起きるわけです。

その変化は緩やかなようで急で、受け入れきれない姿はやっぱり主人公が可哀想に思えてはくる。

国も「はい!出生拒否されたから中絶してね!」は無理だっちゅーの。

そしてそれをごく自然に求めてくる社会の違和感を主人公は身をもって実感するんですね。かつて、自分が当たり前だと思っていたことが、当事者にとっては身を切るほどに痛々しく、つらく、罰せられてもいいから産みたいと思ってしまうその感情に。

これは人間のコミュニケーションというか仲間を求めるという本能なのかはわかりませんがやっぱり人は自分と同じ感覚や考えを持つ者を求めてしまうのかもしれんね。

主人公はかつて軽蔑していた出生拒否テストに反対的な人々の会合に少しだけ興味を持ったり持たなかったりして、~~~~ってまぁ、ここらへんはどうでもいいんです。自分的にはね。もう読んでくれ。

 

長々と書いてしまったけれども

私がこの小説のなにが良かった(考えさせられた)かっつったら

今の現実社会でマイノリティーとされるものがマジョリティーとされ(同性婚とか生まれる権利とか)る設定はまぁ別にいいんだ。そういうもんかくらい。これで幸せになれる人もいるのならそれはそれでいいんだろうしな、くらいにしか思わん。

ただ、現実で言うところの子どもを産みたいというマジョリティーだったものが(拒否されれば)マイノリティーになる、

主人公はマジョリティー寄りの人間だったが我が子に出生拒否されたことでどちらかと言えばマイノリティー側になる、その逆転現象が起きた時に何を考え、痛みに喘ぎ、それらを乗り越えて人に優しくなっていく(寄り添おうとする)、

この変化だったりがリアリティーがあって、主人公の環境の変化による考え方の変化がなかなか(ある程度は予想できたとは言え)よかった。

最終的には本人がどのように思い、何を信じるのかをちゃんと考えて信じるのなら、マジョリティーやマイノリティー関係なく、いいのかもしれないと思った。

 

 

最初読んだ時は「まぁまぁよかったな」くらいの感覚だったんですが、今回感想を書くにあたって読み返し、色々考えていたらここに辿り着けたのは幸いだった。

文章を目で追って、咀嚼して、自分なりの考えを出す時間(私はそこそこ時間がかかってしまう)が私には必要だなって思えたのも良いことでした。

 

 

どうでもいいけど、マジョリティーとかマイノリティーとかの単語を書いたり聞いたりするだけで疲れてくるのは私だけか。

今回、表現しづらいからこういう単語を並べてるけど何となく疲れちゃった。

英語が苦手ってのもあるけど、どんなものであれ、本人にとって信じるものが全てなんだからそれを多数派、少数派っていちいち区切って、しかも日本のくせにマジョリティーとかマイノリティーとかまどろっこしい言い方をするのが何となく苦手だわ。

まぁ、それを社会のなかで貫くのは相応の覚悟が必要なものでもあるんだけどね。