熱量とか、エネルギーとか、パッションとか、持続する力とか、
知り合いがbacknumberが好きだった。
デビューしてちょっと有名になりかけくらいの頃までまぁまぁ追っていたらしい。
私は知り合いに勧められて「いい曲だなぁ」と思いながら聞いていたが、
いつしか知り合いはbacknumberの話をしなくなって、しばらくしてからたまたまその話になった。
「backnumberはあのしみったれた歌が好きだったけど、いよりは変わってしまった……」みたいなこと言って、おめーはあの人の何なんだ…みたいな気持ちになりつつちょっと面白かった。
そんでそこからまた月日が流れて、数年前(調べたら2018年)にフライデーで結婚してて子どもがいることが発覚。
すると知り合いは、「そうだよな…バンドが売れて、結婚して、子どももいて、超幸せならあのしみったれた歌は作れねぇよ…」と諦め?ていた。
その後、知り合いは【Alexandros】にもハマっていたんだが、しばらくしてそれも飽きていた。
好きなものが変わる、追いかけているアーティストが変わるということはよくあることで、それについてどうこうは思わない。
歌とか、映画とか、俳優とか、アイドルとか、ゲームとか、漫画とか、その時一番素晴らしいと思ったタイミングで楽しむ、funになるのが良いに違いない。
第一線でずっと活躍している一部の人は別として、どうしてもハマる期間は限られている気がする(追いかけ続けている熱心なファンは別として)
それは歌とか、映画とか(以下略)とかが、ある種の熱量を持って作られているか、演じられているか何じゃなかろうか。
例えば、ゲームシリーズの1作目は面白いものが多い。
もちろん月日が経ったやつは(1作目に似たものが世の中に出回っているというのもあって)面白いと思えない時もあるが、
1作目は作り、売れる、楽しませることに少なからず製作側に熱量がある。
もちろん2作目、3作目…に熱量がまったくないってことはないんでしょうが。
んで、シリーズってのは1~2くらいは面白くて3作目は面白いけど少し人を選ぶ(ここで別チャレンジが始まる気がする)
4作目以降は微妙だったり、面白かったりする。
(もちろん必ずしもそればかりではないし、例外だってあるので4作目から駄目ってことはない)
兎にも角にも、そうじゃないのもあるけど、そういうもんだとする。
するとシリーズへの期待が徐々に離れ、別の何かに期待を寄せるので飽きられてしまう。
世の中に出回っているもの、名前が知られているものはそれなりに有名で常に追っているファンの数が多いので、たまーに見るファンが徐々に薄れていって新作が出たら「ああ今こんな感じなんだ。昔はよく聞いてたな」と思い出す。
どうしても、何にでもそうなのだが、必ず成長とか、熱量とか、エネルギーとか呼ばれるものは売れると安定して現状維持への方向にシフトする。
成長が落ち着く。
起業とか経済とかでもよくある話で、金のなる木がうんちゃらみたいに、
文化や芸術関係(歌、漫画、映画、などなど)もどこかで止まる。右肩上がりから右へ水平線を辿るように維持されていく。
よくある話だ。
しかし、この成長が一時的に止まって、右へずーっと伸びて行く過程で何かが試されている気がしてならない。
また右上へのびるのか、それともずーっと右へ真直ぐ維持していくのか、
維持というのも大変だ。
成長が止まるとはあまり良い表現ではないかもしれないが、成長しきって、そのトップを維持するというのは成長し続けることよりもずっと困難な気がする。
ダーウィンだか誰かえらい人が、生き残るのは変化のできる生き物だと言うが、
自分のこれを作りたい!をずーっとやり続けるよりも、時代に合わせて新しいことに取り組み続ける意味での変化もこういう分野にも必要なのかね。
でも、変化を取り入れすぎて軸がぶれると持ち味を失うし、どこを維持して、どこを変化させるのか、難しい話だ。
あとこういう分野には時代の感覚、流行りもあるから次にどんな波がくるのかわからないな。
何かを創造する人は本当に大変だと思う。
幸せになりた~~い
幸せになりたい。
けど、まぁ、くいっぱぐれているわけでもないし、
現状にめちゃくちゃ不満があるわけでもない。
ただ何となく声に出して言いたい日本語。幸せになりたい。
今よりも幸せになれたらいいのだけれども、ただ現状が不幸なわけでもない。
幸せなことと、不幸ではないことはちょっと違う。
かと言って、幸せではあるけど不幸にはなりたくない。
不幸ではないくらいが案外丁度いいのかもしれない。
幸せなことに対して夢を見ていられるから。
こうやってブログのネタがなくて、ぼーっと考え事をしている
この時間が案外、贅沢なのかもしれない。
きっと、未来の自分に叱られる
ついつい後回しにしてしまうことが多い。
食べ終わった食器をすぐに洗わない。
床に髪の毛が落ちていてもすぐに掃除しない。
床に落ちてた目薬がしばらく放置していたのは流石に怠惰極まっていると思った。
すぐに行動へ移せるのは買い物だけという堕落。
積んだ本は高く積み上げられて、目だってくると二本目の塔を築き始める。
しかし、一つ言い訳させてほしい。
きちんと正規で買ったのだ。
本、服、ゲーム、その他もろもろ。通販は利用しても、中古品ではない。
だからきっと製作元にはお金が届いている筈。
無駄遣いではなく、経済を回しているのだ!
と、言い張って、自分を肯定していく。
途中で読むのをやめてしまったり、1ページも手をつけていないものはある。確かにあるけれど、表紙や概要を読んでとても素敵だと思ったんだ。
きちんと中身を読まないと、ってのもわかる。まぁわかるんだ。
それでも何かの作品(本であれば作者や編集者、服であれば工場やデザイナー、ゲームであれば製作にかかわる全ての人)を形にしたものへ貨幣という手段を通じて称賛しているのだから許してほしい。
いつかきっと読みます。
忘れちゃう時もあるけど、本当に、買う時は本当にそれが魅力だって思ったんです。
一度置いて、また開いて、その時に「なんで早く読まなかったんだろう」って未来の自分が怒っている、そんな気がする。
ひょっとしたら一週間?
ひょっとして、ブログを一週間書き続けることができた。
もっと早く挫折するのかなぁなんて思ったが、案外続くものだ。
毎日、ブログに何を書こうか考える。
面白い記事が書けるわけでも、お役立ち情報を添えることもできないけれど、
こうやって一週間、まずは一週間、書き続けられたことが嬉しい。
この間、本を一冊読み終わった。
本を読むことに不慣れな私は一冊読み終えるだけでも自分を褒めてあげたくなる。
小学生でもあるまいし、ですませてしまったら自分は出来ない人間なんだなぁなんて思い始めるので自分の機嫌くらい自分でとるうように心掛けたい。
とりあえず一週間続いたので、次は二週間を目指そう。
パソコンの調子が悪いので(そのうち)パソコンを買い替える時にブログをやめてしまいそう。そんな不安を抱えながら。
一週間おめでとう。
チャーミングは何処へ消えた?
朝起きて、支度をして、出勤して。
朝の10時頃に「このことをブログに書こう!」と思いつく。
しかし、お昼を済ませ、3時を過ぎると帰宅することしか考えていない。
あともう少しで一日が終わる。そのことばかり考える。
と、ここまで書いていて思い出した。
世の中からチャーミングという言葉が使われなくなった気がする。
少女漫画を読んでいた時に「彼女はチャーミング」みたいな表現があって、その女の子は眼鏡でそばかすで、他の美少女すぎるほど美少女達に比べたらあえてそうしたのかな?と思わせる外見の女の子を「チャーミング」呼びしている。
だから、顔の造形が美しい、可愛らしい、とまではいかないし、他に特徴がない女の子を「チャーミング」と表現するのかと勝手に思っていた。
今の漫画やアニメの絵ってすごく綺麗じゃないですか。絵が綺麗だな、カワイイなって思うものの、
平凡な、いわゆる美少女枠ではないモブの女の子すら美少女なんだよ。
これは女性向けのアニメや漫画にも言えることで、髪型や体格の差はあれど、美男美女がたくさん出てくる作品ってモブすらも美男美女で統一されている気がする。
あるいは極端に顔の造形を崩している。
そう考えると、昔のチャーミングな女の子(あるいは男の子)は貴重だ。
美男美女枠に入らないが、顔立ちにおいて個性がある。ただ美しいだけじゃなくて、この人にしかない顔立ちをしている。
この個性という部分をチャーミングと呼ぶのかもなぁ、と何となく思った。
全貌がぼんやり拓けた場所へ突っ込む様に
友達が僕のヒーローアカデミアにハマった。
好きな人が多いので大まかな流れだけ知っており、現在31巻まで出ていると聞いて
「終わる前にハマってよかったね」なんて話したが、友達は「もっと早くハマりたかった」とのこと。
週刊誌の人気なものは40巻くらいで終わるイメージがあったのでヒロアカもまだ続くものかと思っていたら、「最終章に入っているっぽいよ」と聞いたもんで、あんな人気漫画でもぼちぼち終わりに向かっているんだな~と思いもした。
どこらへんの話が面白かったのか尋ねたところ、轟くんとやらが打ち解けるあたりだそうだ。
轟くんはレギュラーキャラなのでそこそこ最初の方といえる。
また別の友達が今ちょうど売り出し中の俳優さん?アーティストさん?のファン。
「もっとこの人が売れて欲しい!」とのこと。
色々話を聞いていくと売り出し中のようで事務所側もそこそこ力を入れているらしい、が、世間的に認知度はまだまだ低いようだ。
もっと売れていい人なのに!とそう言いつつも友達は楽しそうだ。
ファン同士の繋がりで「もっとこの人を応援していこう!」という団結力があるらしい。
何ていうか、漫画にしろ、俳優さんにしろ、人気の絶頂を迎える前くらいが楽しい気がする。
この世界はこう、
この人の魅力はこう、
この物語の主旨はこう、
みたいなその媒体(あるいは人物)の魅力がじわじわ出てきて、面白い、素敵と多くの人が認める切っ掛けになる事柄、場面を迎えるか、迎えないかくらいのあたり。
ポケモンでもヒトカゲ、リザード、リザードンのなかでリザードになったくらいのタイミングが面白い気がする。
勝手がわかってきて、かつ全貌がぼんやりでも拓けてきたそこへ突っ込んでいく時の熱をリアルタイムで味わうのってすごく楽しいんだよね。
本屋さんで運試しをしよう
本屋へ行く。
平積みになっているコーナーを眺めていると表紙に惹かれて、読んでみたいなぁと思う本がたくさん出てくる。
10分ほど眺めていると青田まり子現象に襲われ、トイレへ退却。
そしてまた戻ってしばらく見ている。
ハードカバーの本ってデザインがとても凝っていて、何となく読んでみたいと思わせることに長けている。
こうした誘惑を振り切って、目的のコーナーをぷらぷら。
よしもとばななさんの海のふた、残念ながら見当たらず。
かさばる漫画とどうしても今すぐ読みたい場合を除いて、本屋で買いたい。
本がたくさんあって、無限に言葉が詰まってるあの空間がどことなく好きだ。
しかし、本を読むのは苦手だ。
本を読むと眠くなる、物覚えが悪いから登場人物を忘れる、明日読もうの明日がこない本もざらにある。
そんな偏読書をする私にもカチリと嵌る本がある。
電子書籍で最後まで読めた「毒入りチョコレート事件」。
ミステリー小説好きの人々が実際の事件を推理して当てよう!などと人の死を普段抑え込んでいるミステリーへの愛着を炸裂させる話なんですが、
癖の強い登場人物達が各章毎に自分なりの推理を披露するのでどうにか、どうにか最後まで読めた。
語り手が変わると考え方まで変わって面白かった。
毒入りチョコレート事件のように、7冊に1冊くらいの割合でカチッと嵌る本がある。
あらすじでは分からない、作者読みをしないので作者はあてにならない。
本屋に並ぶ本を選ぶ時はほぼほぼジャケット買いをする。
本を買う、物語を楽しむことよりも、この本が当たりかどうかの運試しをしている節がある。